Blommaert(2005)の「Discourse: A critical introduction」4章と5章を読みました。

少し前の記事で紹介したBlommaert (2005) 「Discourse: A critical introduction」の4章と5章を読みました。

  • Blommaert, Jan. Discourse: A critical introduction. Cambridge University Press, 2005.

4章は「Language and Inequality(言語と不平等)」という題で、自分の「声」が力を持つためには、自らが意図する目的を果たせるような形で言語を使えることが必要になってくると言っています。

また、同じように言葉を使っていても、場所が変わると違う意味を持つようになるとも言っていました。例えば、タンザニアで英語で子供が作文を書いた場合、多少文法が間違えていても英語を使うこと自体が価値があり、エリートとみなされるのに対し、欧州では同じ子供が同じように英語をつかっても、それが「悪い英語」とみなされ、マイナスの価値が付されてしまうことがあるといっていました。

こういったマイナスの評価をされ得るリソースを持っている人たちは、言語を通して隠れた形で不利益を被ると言っていました(p.96)

5章では「Choice and Determination(選択と限定)」という題で、フーコーのArchiveという概念にも触れながら、人々はどの単語・フレーズを使うか選ぶことができ、創造的に言葉を使うこともできるけれども、言語の選択は社会規範などの制約も受けていて制限があり、決まっているものでもあると言っていました。

つまり、今書いているブログでも、自分の裁量で言葉を選んで書いていますが、それにも限度があるということだと思います。このブログで「今、ブログ書いとるんじゃわい~わしは」なんておじいさん言葉で書いたり、「Qu’est-ce que vous pensez?」みたいにフランス語で書くいうという選択肢は基本はないわけで、自分の選択も常に、このブログに「ふさわしい」文体と(自分がみなす)社会的規範によって制限を受けているということだと思います。
続きも今度読んでみたいと思います。