池上(1981)「「する」と「なる」の言語学」の原書にやっと触れることができました。

池上(1981)の「「する」と「なる」の言語学」を読んでいます。この本はもう5年以上前にある人に勧められ、読みたいとおもいつつずっと読んでなかった本です。日本語関係の本・論文でもよく引用されています。

  • 池上嘉彦. 「する」 と 「なる」 の言語学. 大修館書店, 1981.

読みやすい本ではないと思いますが、確かにそうだなあと思うところがたくさんありました。ここでは最後の章(p.249-283)を紹介します。

池上は英語は「する」的な言語で、動作をする主体(動作主)に注目するのに対し、日本語は「なる」的な言語で主体には注目せず出来事に注目する言語だといっています。

池上は英語ではgoやcomeなどの基本的な運動の動詞が<場所の変化>から<状態の変化>を表すのに転用されるといっています。例えば以下のような例を挙げていました(p.259の例の一部)

  • John went crazy
  • John’s dream came true

この2つの例でも分かる通り、「行く」「来る」といった場所の変化を表す動詞が物理的な移動ではなくて、「Johnがクレイジーになった」や「夢がかなった」という状態の変化に使われています。

日本語では「ジョンがクレイジーに行く」とか「夢が来る」とかは基本は言えません。

逆に、日本語の場合は<状態の変化>を表す動詞が<場所の変化>に転用されるという英語の逆の動きをするといっています。例えば以下の例をあげていました。(p.252の例)

・お殿様のおなり

この場合、「なる」という状態の変化を表す動詞が、お殿様の移動を示すために使われています。英語では「Otono-sama became」だと意味が変わってしまいます。「Otono-sama came」になるでしょう。

こういった事象をもとに、「場所の変化」というのはある個体の変化に注目しており、「状態の変化」というのは全体的な状況の変化に注目しているといえるのではないかと池上はいっています。

池上は「モノ」「コト」や、英語・日本語の「運動の動詞」や「自動詞/他動詞」についても分析しつつ(面白かったですが割愛します)、英語が「個体に注目」した「する的な言語」で、日本語が「全体的な状況に注目」した「なる的な言語」であるといっていました。