Bassnett and Trivedi (1999)編のPostcolonial translationの序章を読みました。

Bassnett and Trivedi (1999)編のPostcolonial translation: Theory and practiceの序章を読みました。

  • Susan, Bassnett, and Harish Trivedi. “Post-colonial Translation: Theory and practice.” London and New York: Routledge (1999).

前回記事でこの本の中のTymoczko(1999)のPost-colonial writing and literary translationというチャプターについても紹介しました(詳しくはこちら

Bassnettはトランスレーションスタディーズの第一人者の一人で、トランスレーションスタディーズの入門書も書いています。

  • Bassnett, Susan. Translation (The New Critical Idiom). Routledge, 2013.

さて、今回読んだ序章では、ポストコロニアル翻訳理論についてインドの例を出しながら説明していました。

翻訳というと、原文の方が権威が上で、翻訳はオリジナルに劣るものという考えがありますが、Bassnett and Trivediはこれも印刷文化ができてからの概念だと指摘しています。最近では翻訳がオリジナルに劣るという考えに異議を唱える人も多いそうです。Octavio Paz(1992)はオリジナルのテキストも、「言語でない世界」から「言語」に翻訳しているのであるから、本質的には原文だって翻訳なのだとまでいっているそうです。(p.3)

こういう翻訳者の再評価の中で、カニバリズムが翻訳者の役割を話すときのメタファーにも使われることもあるといっていました。(p.4-5)

カニバリズムとは、16世紀のブラジルでの牧師の人肉食い事件というヨーロッパにとっての衝撃的な事件に由来するそうですが、1920年には「カニバリズム」が植民地支配されている側が植民地支配を打破するときのメタファーとして使われるようになったそうです。どういうことかというと、植民地支配されている側が自らに課されてきたものを打ち破るにはヨーロッパをカニバリズムのように「飲み込む」しかない。そして、ヨーロッパを飲み込むということは、ヨーロッパの規範等を打ち破ることにもなるが、それと同時に敬意を払うことでもあるのだ、という意味だそうです。

これが、他文化を飲み込み、自分のものにするという意味で、翻訳者の役割を語るときにも転用されることもあるといっていました。

また、植民地支配の際に、翻訳が権力と手をとり、植民地支配や帝国主義を強化していたともいっていました。

植民地支配下の翻訳というのは長年、欧州読者のために、欧州言語に翻訳されるという、一方方向で、決して双方向ではなかったからだそうです。さらに、植民地を「翻訳」というメタファーで捉え、オリジナルである「欧州」の劣った「コピー」という認識がされていたとも指摘しています。(p.5)

その反動で近年では欧州言語への翻訳を制限したりする動きもあるそうですが、この論文では、有名なインドの批評家・文学者のHomi Bhabhaを引用して、極端に走るのではなく「in-between」(中間的な場)というのが一番生産的なのではないかといっていました。(今はHomi Bhabaのin-betweennessも結構批判もされているとは思いますが・・・。)

他にも共著者のTrivediがインドの文学者だからだと思いますが、ペルシャの詩人ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」が、インドでは昔は直接ペルシャ語から翻訳するのではなく、フィッツジェラルドの英語訳をヒンディー語に翻訳するという形でしか受容できなかったなど、インドの小ネタが多くておもしろかったです。

ちなみに日本でも「ルバイヤート」はフィッツジェラルドの英語訳を通して受容されたと思いますので同じような現象だったということでしょうかね・・・。

他のチャプターも時間があれば読んでみようかなと思っています。