Weedonのフェミニストとポスト構造主義に関する本の第1章と第2章を読みました②

昨日の続きです。英国ウェールズのカーディフ大学のクリス・ウィードン(Chris Weedon)の「Feminist Practice and Poststructuralist Theory」の第1章と2章を読みましたが、今日は主にポスト構造主義の原則について概説した第2章についてです。

  • Weedon, Chris. “Feminist practice and poststructuralist theory.” 2nd edition (1997).Blackwell Publishing

ポスト構造主義は、構造主義のように1つのことばに対応する1つの意味があると考えるのではなく、1つの言葉の意味も多様で、変化していくものだと捉えています。

また、ポスト構造主義は、他のフェミニズムの立場と違い、「真実」があるとは思っていません。経験(やある出来事)というのは特に本質的な意味があるわけではなく、これについて言説を作り上げていくことで意味が付与されるといっています(p.34)。

こういった言語と主観性(個人の物事の捉え方)、社会制度がどう関わっているのか研究することにより、権力(パワー)関係がどう作用しているかを調べ、それを基に変化の可能性を探るという立場だそうです。
なので、「男女間に不平等があるからこれを正さなければいけない」と女性の権利を主張するのではなく、現状のディスコースでどう男性と女性が表象されているかを調べ、それを基にディスコースを変化させる可能性を探るという方向性を取るようです(私の理解では)。

Weedonはこういう風にもいっています(p.40)

“Discourses represent political interests and in consequence are constantly vying for status and power. This site of this battle for power is the subjectivity of the individual and it is a battle in which the individual is an active but not sovereign protagonist”

「ディスコースというのは、政治的なものであって、常に他のディスコースと地位とパワーのために争い合っている。このパワーのための争いというのは(個人がどう物事を捉え、自身をどの立場に置くかという)個人の主観性に関係することであり、一人一人は主体的に関与する者ではあるけれども、全体にコントロールを持っているわけではない」という意味なのかなと思いました。

このWeedonの主張を私の理解した範囲で、この上記について最近見た「永遠の0」を基に考えてみたいと思います。

  • 永遠のゼロ

この話題作「永遠の0」について、「家族愛」「日本の右傾化」「愛国心」や「岡田君かっこいい」など様々レベルのディスコース(時に相容れないものも含む)が存在するようです。この作品の評価として受け入れられるため、様々なディスコースが争い合っている状態ともいえます。どのディスコースを受け入れ、どのディスコースを受け入れないか、どのディスコースを生産するかというのは、個人個人にかかっているものでありますが、だからといって個人が作り出せるディスコースには限界があります(そもそもディスコースを作り出す言語能力がないとディスコースを作り出すことすらできません)。

ポスト構造主義の立場だと、この映画に対する「正しい評価」とか「正しい意味」というのは存在せず、様々なディスコースの中でどのディスコースが力を持つかという問題にかかってくるのかなと思います。そして、自分たちが望むディスコース構築に向けて行動を移すということなのかなと思います。(あくまで私の理解ですが)