ホミ・K・バーバのハイブリディティとその批判について②

昨日の続きです。ホミ・K・バーバ(Homi K. Bhabha)のhybridityに対する批判について、以下のKubota (2014)の論文のp. 6-p.8で先行研究がまとめられていて、役に立ちそうだったのでメモします。

  • Kubota, R. (2014). The multi/plural turn, postcolonial theory, and neoliberal multiculturalism: Complicities and implications for applied linguistics. Applied Linguistics. 1-22. Doi:10.1093/applin/amu045.

ちなみにこのKubotaの論文の主目的はhybridityを批判することではなく、論旨は別のところにあります。(またの機会に紹介できればと思います。)

Kubota (2014)の論文で要約されていたhybridityに対する批判は以下の5点です。

  1. hybridityの概念が、hybridでない文化の存在を前提としていること。
    そんな「hybridでない文化」が存在するのか?もし「hybridでない文化」の存在を否定し、すべての文化がhybridだと仮定すると、hybridityの概念そのものに矛盾が生じるといっています。
  2. hybridityの概念というのはヒエラルキーを構築し、正当化するため、支配者側に利用されるおそれがあること。
    日本の大東亜共和圏がその例の一つとして挙げられていました。
  3. hybridityは文化的ナショナリズムや政治における集団行為の重要性を考慮していないこと。
    脱植民地化や不平等是正のための活動の原動力となったのは、文化的なナショナリズムや集団での政治的行動だったといっています。
  4. hybridityの概念そのものがもつイデオロギー構造を顧みていないこと。
    hybridityは基本的にポストコロニアル世界と第一世界(先進国)との間の関係を示し、ポストコロニアル世界間の関係性ではありません。(バーバもそうですが)ポストコロニアルの知識人というのは先進国の著名な大学で教鞭をとっていることが多く、hybridityの概念が第一世界における権威あるエリート層を示すことが多いといっています。
  5. 理論と実践で乖離があること。
    このhybridityの概念が現実の問題にどこまで応用できるかは疑問が残るといっています。

この部分でよく引用されていた文献は以下のものです。hybridityの批判について詳しく知りたい方はこの本を読めばいいのではと思います(私自身は読んでいません。)

  • 批判1~2:Moore-Gilbert, B. 1997. Postcolonial Theory: Contexts, Practices, and Politics. Verso.
  • 批判3~4:Dirlik, A. 1994. ‘The postcolonial aura: Third world criticism in the age of global capitalism,’ Critical Inquiry 20: 328–56.
  • 批判3、5:Sethi, R. 2011. The Politics of Postcolonialism: Empire, Nation and Resistance. Pluto Press.

昨日も紹介しましたが、元のバーバの本です。

  • Bhabha, Homi. K. (1994) The Location of Culture. Routledge