クリティカル・シンキングの教授法に関するten Dam and Volman (2004)の論文を読みました。

またクリティカル・シンキングについてです。今回はクリティカル・シンキングの教授法に関する以下の短い論文を読みました。2人ともアムステルダム大学の研究者のようです。

  • Geert ten Dam, Monique Volman (2004) Critical thinking as a citizenship competence: teaching strategies. Learning and Instruction 14. 359–379

この論文は2部構成で、第1部はクリティカルシンキングとその教授法に関する先行研究のまとめ、第2部は社会構成主義(詳しくはこちら)に基づいた、民主主義の市民教育に向けたクリティカル・シンキングの教授法について記載していました。
以下、いくつか自分の備忘録用に気になった点だけメモしておきます。

  • この論文では「クリティカル」というのは、「自分の立場を決めること」であると言っています。ただ相手に迎合するだけではなくて、自らの立場を選択し、なぜ自らがそのような立場を選択するのかを理解し、また同時に、相手の意見を尊重すること、対話を通して自らの意見を形成し、自らの意見を伝えていくことだそうです。このクリティカルであることが我々西洋文化の一部のようである(seems to be part of our Western culture)と言っていました(p.360)。言うは易し行うは難しで、相手の意見を尊重せずにただの意見の主張のし合いになることも多い気もしますが、このような意見は他の論文でも何度か見聞きした気がします(←要確認)。また、当たり前のようにここでもWesternと出てくるのですが、論文の全体の価値が云々の問題ではないですが、「非西洋」に位置づけられる(+自らそう位置づける)ことが多い私自身はどうしても気になってしまいますね・・・。そういえば「西洋」の某国で開発学をしていた日本人の知り合いが、クラスで教師・学生ともに「我々西洋は」とよく言っていたらしく、自分はどうなんだろう?と複雑な気持ちだったと言っていたのを思い出しました。

 

  • また、この論文では、クリティカル・シンキングは市民が社会参加するにあたって必要なスキルだと述べていました。ただ、先行研究では、クリティカル・シンキングは分析・まとめ・評価などの上位思考スキル(higher-order thinking skills)として捉えられがちで、社会参加のための能力としてはあまり捉えられていないと言っていました。クリティカル・シンキングを「社会参加のための能力」と考えるのは、前紹介したCummins(1989)やWallerstein (1983)と共通点がありそうです。

 

  • クリティカル・シンキングの議論でよく論点になるのは以下の3つだそうです。①クリティカル・シンキングは一般的スキル・素質なのか、分野ごとに異なるスキル・素質なのかという点、②クリティカル・シンキングは「合理的」な点を強調するが、「合理的」ではない感情等はどうなるのかという点、③スキルに重きが置かれ、社会的視点に欠ける点。

 

  • 先行研究では、クリティカル・シンキング向上のための教授法として、学生の信念・考えに注目させたり、アクティブ・ラーニングや問題解決ベースの学習、学生間の対話などが提示されているようです。