「わきまえ」に関するIde (2012)を読んでみました。

昨日の記事の続きです。
井出祥子の英語の論文がかなりアップロードされていたので、その中で一番新しいものを早速読んでみました。

  • Ide, Sachiko (2012) “Roots of the Wakimae Aspect of Linguistic Politeness: Modal Expressions and Japanese Sense of Self”. Pragmaticizing Understanding, Amsterdam: John Benjamins, 121-138

この本に収録されているもののようです。

  • Meeuwis, Michael, and Jan-Ola Östman, eds. Pragmaticizing understanding: studies for Jef Verschueren. John Benjamins Publishing, 2012.

この中では、日本語はモダリティ(詳しくはこちら)が必須であるといっていました。

英語だと「Taro is ill」ということができますが、日本語の場合は「太郎が病気」のみではなく、話す相手や場面に応じて「太郎が病気です」「太郎が病気だって」「太郎が病気」など、話し手の心的態度を表すモダリティ表現をつけなければならないといっています。

また、日本語の場合は、英語のように確立した「個人」という概念があるわけではなく、自らが集団の一員であり(interdependent selfといっていました)、「ウチ」の人や「ソト」の人、「ヨソ(ソトのソト)」の人といった区別が重視されるといっていました。なので、日本語でスムーズにコミュニケーションするためには、個人の意志だけではなく、「場」に応じた「わきまえ」が必要になり、それに沿ってモダリティ表現を選ぶ必要があるそうです。

ちなみに、「わきまえ」は、そのまま英語でも「wakimae」となっていて、社会規範を自然に遵守すること(almost automatic observation of socially agreed-upon rules, p.136)と説明されていました。

おそらく下記の本では(まだ読んでいませんが)、上記の点についてもっと詳しく説明されているのではないかなと思います。

  • 井出祥子. 『わきまえの語用論. 大修館書店』, 2006.