Kubota (2020):plurilingualism/translanguagingへのクリティカルな視点

今回読んだ論文

最近発売された以下の本の中のKubotaの章を読みました。

  • Kubota, Ryuko. “Promoting and Problematizing Multi/Plural Approaches in Language Pedagogy.” Plurilingual Pedagogies. Springer, Cham, 2020. 303-321.

 

最近の応用言語学のmultilingual/plural turnを批判的に考察したKubota (2014)を読みました。

 

↑前からKubotaはplurilingualismtranslanguagingには批判的な意見も言っていましたが、今回の論文でも共通する論点がありました。

 

Plurilingualism/translanguaging

plurilingualismやtranslanguagingの特徴のひとつは、言語の境界線に疑問を投げかけることがあります。

例えば、日英バイリンガルの人同士は、英語・日本語を混ぜて使うことが多く、そういった柔軟な言語使用を「間違い」と否定するのではなく、肯定していこうというものです。

 

理想と現実の乖離

ただ、Kubota(2020)の論文では、こういったplurilingualism/translanguagingは理想を掲げていますが、実際の現実ではモノリンガルなイデオロギーが強く、理想と現実に乖離があるといっていました。

 

例えば、Translanguagingを取り入れたライティング授業などでは、複数の言語で書くことを推奨することがあります。

ただ、アカデミックな英語の論文誌では、translanguagingについて書いている研究者が、translanguagingをすることはほとんどなく、いわゆるちゃんとした「英語」で書きます。

また、マルチリンガルな研究者の中には、英語で論文のトレーニングを受けたため、自分の母語で論文を書かないという人も多いです(Kubota 2020, p. 314)。

なぜ学生には複言語の使用を推奨するのに、自分はそれを実践しないのかとKubotaは問いかけていました(Kutoba 2020, p. 314)。

 

社会的不平等の問題

そして、plurilingualism/translanugagingの概念の根本には、多様性を尊重するという考えがありますが、現実の世界で起こっている社会構造的な不平等の問題(レイシズム、ジェンダー差別、言語差別など)は見落としがちだと言っていました(Kubota 2020, p. 315)。

 

違いが何かだけじゃなくて、なぜその違いが社会的・歴史的・政治的・言説的・イデオロギー的に構築・固定化されてきたのか、その結果どうなったのか、どうグループ(そしてグループ内の人)がその違いを体験してきたのかなど考えることを提唱していました(批判的多文化主義と呼んでいました)。

これは、学生が人種、ジェンダー、コロニアリズム、イスラムフォビア、ホモフォビア等々の社会的問題を明示的に話し合うことにもなるといっています。

 

人種、階級、国籍その他に関する構造的障壁や言語イデオロギーを変えていくことを見据えながら、クリティカルな視点を持ってplurilingualism/translanguagingなどに関わっていこうといっていました(Kubota 2020, p. 303)。

 

まとめと感想

Kubotaのだけではないですが、(特に北米の)言語教育・応用言語学の分野で、最近social justiceについての論文や発表が増えているように思います。

自分たちのアカデミックな活動を通して、公正な社会の実現に向けて働きかけていこうという気持ちは感じるのですが、social justiceについてただ意識し考えればいいのか、教師または学生に何か行動を起こしてほしいのか(うつすなら何をどう起こせばいいのか)、social justiceについて話す研究者の人が、具体的に何を求めているのかよくわからなくなるときが正直あります。

最近、「クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実」という人道援助のジレンマを描き出した本や、生物多様性を守ろうとしたことで生まれたジレンマを描いた「絶滅できない動物たち――自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ」を読みました。

こういった本が描き出しているように、「弱い人を助ける」とか「生物多様性を守る」とかいうのは聞こえがいいですが、実際にはジレンマが多く、すごく複雑なことだと思うのです。

倫理的なチャレンジを突き付けられているのが現在の社会だと思っているのですが、social justiceについて話す学者がこのジレンマについてどう考えているのか、私が読んだり聞いたりする限りでは、いまいち伝わってこないからかもしれません。

どこかで書いているものがあれば読んでみたいと思っています。