Inoue (2003)の「女ことば」に関する短い論文を読みました。

この前の記事で紹介した、以下のInoue (2006)の本を読みたかったのですが、残念ながら近くの図書館に置いていませんでした・・・。

  • Inoue, Miyako. Vicarious language: Gender and linguistic modernity in Japan. Univ of California Press, 2006.


なので、今日は代わりに以下のInoue(2003)の短い論文を読みました。

  • Inoue, Miyako (2003) Speech without a speaking body: “Japanese women’s language” in translation. Language & Communication 23 (3-4), pp. 315-330.

この論文では、大多数の女性は「~かしら」や「だわ」などの「女ことば」を使っていないにもかかわらず、これを自らの言語として認識しているということを指摘し、この現実の使用と認識の間の不一致がどう生まれ、どう規範化されているかを分析していました。

データとしては、新聞の見出しの分析や、吉目木晴彦の寂寥郊野、風と共に去りぬの和訳を分析していました。

  • 吉目木晴彦「寂寥郊野」

 

「寂寥郊野」は、アルツハイマーを患ったアメリカ在住の日本人妻、幸恵の話だそうです。幸恵は基本的に女ことばで話しているそうなのですが、これがアメリカ軍基地の洗濯屋の娘として育ち、1950年に結婚してアメリカに住むこととなった彼女の生い立ちとは反しているといっていました。

つまり、幸恵の生い立ちを考えると、幸恵は実際には「女ことば」では話していないはずなのにもかかわらず、幸恵が「女ことば」で話しているという矛盾があるということだと思います。

また、幸恵の息子が日本人と結婚したそうなのですが、その息子の嫁も同じように「女ことば」で話しており、幸恵とその嫁の二人の世代差や生い立ちの違いも分からなくなっていると指摘し、結果として「日本の女性は女ことばを使う」という日本語(女ことば)の単一性を強調する効果を生み出しているのではといっていました(p.325)

さらに、「風と共に去りぬ」の和訳版では、主人公のスカーレットは「女ことば」で話し、「女ことば」が「白人女性」や「中流(上流)階級」を示すために使用されているのに対し、侍女の黒人女性のマミーは「~ごぜえますだ」と方言じみた言葉で話しているそうです。

  • 風と共に去りぬ(1997)

(以下はいまいち理解しているかは分からないので、私の解釈ですが)Inoueは「女ことば」というものはそれ単独で存在するというよりも、他のテキストとの関係性で意味が形成されているといっていました。上記の「風とともに去りぬ」のように、英語のテキストでの「白人女性」という人種的概念が、日本語で女ことばと結び付けられることによって、「女ことば」の規範性や「女ことば」にまつわるアイデンティティが形成されているということだと思います。これは英語のテキスト・日本語のテキストの関係性があってこそ成り立つものであり、日本語の「女ことば」単独で成り立つものではないということだと思います。

今回の分析対象は1997年版の「風とともに去りぬ」の和訳版はでしたが、最近は新訳版も出ているようです。新訳版ではどのように訳されているのでしょうか。気になりますね。

  • 風と共に去りぬ 新訳版

それから、引用されていた文献で以下のものも読んでみたいです。随分前に紹介したSilversteinのものです。

  • Silverstein, M., 2000. Tra(ns)ducing the (co(n))text(ure) ofculture: naming and the necessarily transformative nature oftranslation. Ms Presented to Conference, Translations, University of Leipzig/Max- Planck-Institut, Leipzig, pp. 28–30 (to appear in its Proceedings)

学会発表のようですが、文書になっているんでしょうか・・・。



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